
—農家の次男であった大隅さんが、戦後まもなく刀工になられたのは、どうしてなのでしょうか?
私が刀工になりたいと思ったのは13、4の頃。それから刀を作りたいという思いがずっと消えなかった。それで、鍛冶屋を志します。とはいえ、戦争に負けた1945年。その年に刀を作りたいと両親に言ったら、猛反対をくらいました。「戦争に負けた年に、刀を作りたいなんで、まともじゃない」とね。それと、両親は家業(大隅さんのご実家は農家)を継がせたくて、好きなことは一切やらせてくれなかった。でも、諦めきれず、ある時、日本美術刀剣保存協会に手紙を出した。鍛冶屋を紹介してくれ、と。でも、終戦直後でしょう。刀を作っていないことは分かっていました。案の定、今は刀をつくっていないという返事がきました。
—それからどうされたのでしょうか?
それで、しかたなく毎日農作業を手伝っていました。本当にくたくたになる日々です。結局、家業を2年くらい手伝いましたね。それから、これで断れたら諦めようという気持ちで、ふたたび手紙を出したんです。ところが、今度は協会の方が、宮入さんのところへいってみたらどうかと言ってくれて。その口利きもあって、宮入師匠のところへ入門することになりました。

—宮入行平(みやいりゆきひら)さんは、長野県坂城町の刀工。のちには人間国宝に認定された方ですね。
はい。宮入師匠は、若い頃から日本美術刀剣保存協会主催の発表会で数々の賞を獲得していた人。備前伝、山城伝、相州伝と複数の作風を究めた人です。その人に弟子入りできる。胸が熱くなりました。単身信州に向かいました。私がちょうど20歳の時だったかな。
—どんなことを教えてもらったのでしょうか?
「よい刀を作るには、よい鉄を作ること」という師匠の信念がありました。それを私も受け継いでいます。日本刀の美しさは、地鉄(じがね)にあるんですよ。
—大隅さんは修業中の1958年、日本美術刀剣保存協会主催の作刀技術発表会で、初出品ながら優秀賞を受賞されますね。おいくつだったのでしょうか?
当時26歳。その2年後にも優秀賞を受賞し、刀剣の世界で名が知られるようになってきた。それを機に、1960年、地元の群馬県太田市に戻り、独立したんです。

—独立後はどんなふうに制作に取り組まれていたのでしょうか?
独立後すぐは、師匠から教わったものを踏襲していきました。弟子がすぐに独立しても注文があるわけではないですからね。その後は、教えに沿って製法を行い、まったく工程は一緒。でも違ってくる、作風がね。例えば、茎(なかご)のヤスリのかけ方とかが、違ってくる。師匠は突き上げてかける。私は下ろすようにかける。不思議なものですが。師匠のまねをしているのに、自分の作風に変っていきました。
—師匠を越えるということはどのようなことですか?
師匠は私の年齢よりも早くに亡くなったのですが、未だに師匠に勝っているのは年齢だけですね。実は、私の妻は師匠の妹なのですが、私は一生師匠にはなれない、と言うと妻に笑われます。
—思春期の頃から刀工になるという一念があり、本当に刀工になられ、人間国宝まで極められました。
私は病気や大怪我で死にそうになったこともあります。それでも続けてこられた。そして、まだまだ作りたいものがある。刀作りに飽きたということは一度もない。これからも、群馬のこの地で作り続けていくと思います。生きているかぎりね。
―どうもありがとうございました。
* 本記事は2007年11月に行った取材をもとに再構成したものです。


大隅俊平 Toshihira Osumi
1932年、群馬県太田市に生まれる。本名・貞男。1952年、長野県坂城町の刀匠・宮入昭平(のちに行平と改名、1963年に人間国宝)に入門する。1957年、文化庁から作刀許可がおりる。1960年、群馬県太田市にて独立し、現在に至る。
1958年、第4回作刀技術発表会に初出品し、優秀賞を受賞。1960年、第6回作刀技術発表会で優秀賞、以後1964年まで毎年出品、入選もしくは優秀 賞。1967年、第3回新作名刀展で特賞、以後1972年まで6年連続で特賞。1974年、第10回新作名刀展で正宗賞受賞。その後の第12回、第14回 でも同賞受賞。1997年、重要無形文化財保持者認定(人間国宝)。2001年には、敬宮愛子内親王の御守刀を謹作。
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